センター長あいさつ

学生の多くは物心ついた時から周りに情報機器があり、スマートホンで場所を選ばずに通信ができ、インターネットで世界中の動きを知り、その検索機能で知りたい情報をいつでも簡単に得られることが当たり前の状況です。しかし、この簡単に大量に得られる情報はえてして玉石混淆であり、その中から的確に「玉」の情報を選択できる力が必要となります。その力こそ、大学という学問の場において、特に、教養教育によって獲得できるものでしょう。

全学共通教育科目の受講によって得られる多様な知識や語学のスキルに加え、思考力、判断力、洞察力、想像力など、自らの力で生きていく力をぜひ貪欲に身につけてください。

時友裕紀子 教養教育センター長

 

-歴代センター長からのメッセージ-

教養教育センターは、大学教育センター、国際交流センターとともに教育国際化推進機構を構成する学内共同施設の1つです。この3つのセンターが協力し合いながら、国際社会で活躍できる人材の育成と大学教育の国際化の推進に取り組んでいます。とりわけ、教養教育センターでは、国際性を高める教養教育の企画・実施を主な任務としています。

ところで、教養教育とは何でしょうか。教養教育を専門教育と対置させる考え方が一般的ですが、学問は自分の専門とその他の教養というように明確に二分できるものなのでしょうか。強いて区別しようとすれば、知識・技能をその範囲の広狭と深さや習熟度という2次元の軸で捉え、特定の領域の知識・技能の深さや習熟度に焦点を当てるのが専門教育で、幅の広さに焦点を当てるのが教養教育ということになるのかもしれません。

ところが、現実世界の現象、事象は学問上の分類に合わせて都合よく生起、成立しているわけではありません。その現象、事象を理解、追究するためにはさまざまな知識が必要になることがあり、そうした場合には専門・教養という区別は曖昧にならざるを得ません。もちろん、すべての領域の知識に精通することは現実的には難しいでしょう。しかし、さまざまな学問領域の一端に触れておくことで、幅広い知識の中から必要なときに必要なものにアクセスし、役立てることができます。幅広い知識をもつことの意義の1つは、このような点にあるように思います。

このような考えの下、国際社会で活躍できる人材の育成を目指す山梨大学の目標は欲張りです。それは、幅広さの次元の教養と深さの次元の専門の知識・技能のいずれをも高度に備えた人材の養成です。その目標の実現の一端を担うべく、全学の先生方の協力の下、本センターの6名の専任教員が、全学共通教育科目を始めとする山梨大学の主に幅広さに焦点を当てた教養教育について日々考え、改善に努めています。

進藤聡彦(2015~2016年度センター長)

 

こんなことを考えたことがあります。自分がもっている知識を円の形に置き換えた場合、知っていることが増すほど円を囲んでいる無知の領域も大きくなる。つまり、知らないことが限りなくあることがわかってくるということです。それは本当のように思えますが、知識について言えることで、知識と教養が同じものかどうかは簡単には答えられません。

最近「大いなる沈黙へ」という記録映画を見ました。アルプス山脈に近いフランスのグランド・シャルトルーズ修道院の修道士たちの暮らしを撮った3時間近い映画です。修道士はたとえば日曜日の昼食後の散歩の時間だけ会話を許されるというようなきびしい戒律の中で暮らしています。映画はナレーションやバックグラウンドの音楽を加えず、照明さえ用いずに、修道院の様子を季節の移り変わりとともに映し出していきます。その「静寂」が対比的に俗世と物質文明に思いを馳せさせることにもなります。十年あまり前にフィレンツェのサン・マルコ美術館で抱いたのも同じ思いでした。画家フラ・アンジェリコの作品群などで知られる美術館ですが、元来は同名の修道院で、厳格な宗教政治を行おうとした結果火刑に処せられたサヴォナローラ(1452-98)が院長として起居した修道院でもあります。そこに並ぶ、小さな机と椅子のみが置かれた修道士の独居室を見たとき、わたしたちは物と情報を持ちすぎ、それが不可避的に雑音や雑念に結びついていることに思い到ったものでした。

小出楢重(1887-1931)という画家は「今の処、何と云っても私が思う存分の勝手気ままを遠慮なく振舞い得る場所はただ一枚のカンヴァスの上の仕事だけである。ここでは万事をあきらめる必要が無い。私の慾望のありだけをつくす事が許されている」と書いています。そういう拠って立てるものを自分の中に持てたら、どんなにひどい世の中にあっても、絶望しないで生きていけるのではないでしょうか。教養とは本来そうした拠り所と力になるものだと思います。自分を飾るためのものではありません。

佐藤一郎(2014年度センター長)